親水性センチメント・後編








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報告書は提出済みだ。もう一両日は俺に仕事がくることはない。とにかく風呂 に入りたい一心で書き上げたそれはさっき副長の部屋に置いてきた。拭っただ けでは落ちない、血の匂いが脳髄にまで響くのだ。とにかく早く落としてしま いたい。

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真昼のひかりに照らされた風呂場は夜、それも深夜に入らされるものとはまる で別のもののように感じる。ひどく贅沢。まあどちらにしても自分以外誰ひと りいないという状態に違いはないか。気温は真夏日と呼べるもののようで、湯 を張る気にはなれなくて、水風呂に浸かった。ひどく疲れてた。
屯所には隊士の多くが使う大浴場とは別に小さめの風呂があって、こうして昼 にひとりで入るときは効率と遠慮からそちらを使うことが多い。ぼんやりと水 に浸かったまま、手のひらを凝と見る。当然のようにそこには今朝方の血のあ とも、匂いも残ってなどいなかった。
(それでもこの手であのひとに触るのは気が引ける)
自分より血なまぐさいことをしている相手なのだからおかしいな、とも思うの だが、気が引けるものは引ける。そうなるのは仕様がなかった、それくらいに 好きなのだ。
扉の向こうで物音がして、顔を上げると金盥を持った副長が入り口にいた。
「なにを」
「涼みに」
部屋のエアコンは、とは聞けなかった。

  ○

盥を風呂場の床に置いて、入り口のところに座り込んだまま煙草の煙を吐き出 し、水に浸かったままの俺を眺めていた副長はおもむろに立ち上がるとこちらに寄って来る。
なんだ。
「お前髪はまだか」
「はい、まだ洗ってないです」
俺が風呂に入ったときの、身体を洗う順番をとっくに覚えている副長はあくま で確認しただけ、という風情で(なにしろその手にはシャンプーのボトルが) そうして濡れた髪を撫でた。自然にまぶたは下がって、安心する。このひとに 近寄ると緊張と安堵とが気持ち良い混ざり方をしていく、俺はもう随分昔から そういう風になってる。

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「なにかありましたか、副長」
「勤務時間外だ」
「ひじかたさん、」
「うん」
言いながらシャンプーを手に取り俺の髪を洗っていく。動くことはせずに水に浸かって目を閉じたまま俺は話 を聞く。
「監察がひとり、血まみれで帰ってきた」
「へえ」
「自分は無傷なくせに、痛そうな顔を、」
「……」
「していたような気がして」
「して?」
「……たまには労ってやる」
前髪を持っていた手が止まったので目を開けた。同情は見えない目。それがい いいんだ、余計なものはいらない。
「いい上司だろう?」
「……灰が落ちそうですよ」
泡のついたままの手で煙草は口から離されて、灰はタイルの床に広がって、く ちびるは額に落ちた。俺は少し笑う。
「少し昔を思い出します」
「あ?」
「俺が小さい頃、風呂上りは土方さんが髪を拭いてくれたでしょう」
「……やんねえぞ」
苦々しく笑った目の前の顔に俺はうれしくなる。
「えー」
「お前は総悟にネタを提供したいのか?」
「あっ灰!ちょ、あぶねっ」
顔に傷はやめて!と調子に乗って叫べば大した顔でもねえだろうが、といつも 通りのひどい応酬が吐き出された。傷物になったらアンタ責任とってくれんで すか、などという阿呆な返しが浮かんだが、そうしたら責任取ってやる、とべ しりと頭を叩かれたので飲み込んだ。アンタが阿呆だったんか。俺も阿呆なの で、なんて、まあお似合いだこと。







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せっかく風呂なのに!もっとなにか!と思わせてしまったらすみません
070614